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フランス式彩色地図

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近代地図作成史上の最高傑作!

▼約100年前の鎌倉
約100年前の鎌倉

081 横浜市金沢区、鎌倉市東部、逗子市周辺

▼現在の鎌倉
現在の鎌倉

国土地理院 平成12年1月発行
数値地図25000 「鎌倉」の一部

以下の解説文は、「長岡正利(1991):明治前期の手書彩色関東実測図 -  第一軍管地方二万分一迅速測図原図解題.『国土地理院時報』,No.74」を引用転載したものです。

 地図は、文化の発達の尺度を表すといわれています。今から1世紀以上もさかのぼる明治前期、現在においても目を見張る見事で華麗な色彩の地図が作られていました。

 全国的な基本測量の実施に先立ち、関東平野のほぼ全域と房総・三浦半島について、明治13年から明治19年にかけて作られた「第一軍管地方二万分一迅速測図原図」は、陸軍参謀本部によって実施されたわが国初の広域測量の結果であり、近代測量の基礎となった地図です。

 この迅速測図原図は、図解法による図根測量を行いさらに細部測量を行って作られたものです。平板上で作成されたこの原図は、等高線等による地形表現のほか、水彩絵の具により市街地の状況や田畑を巧みに彩色してあり、見た目にも美しく、わが国近代地図作成史上最高の傑作といってもよいでしょう。

 明治初期の陸軍は、幕府陸軍が範としていたフランスの軍制をそのまま引き継ぎ、かつ、地図作成の中枢部にはフランス陸軍で学んだ人達がいました。当時文化、芸術の世界的な中心であったフランスでは、地図においても見事な彩色図が用いられていました。

 このような背景で、この迅速測図原図はフランス方式の彩色原図として作成されたものです。しかしながら、その後、地図作成を含む軍制全般がフランス方式からドイツ方式に移行されたため、「迅速測図原図」もドイツ方式の1色刷りに描き直されて刊行されました。そのため、国土地理院の倉庫で長い間眠りについていたのですが、(一財)日本地図センターが平成3年3月25日に「明治前期手書彩色関東実測図」として復刻発行しました。しかし限定出版として発行部数も少なく、また関東地方の主要部を覆う約1000枚の地図を一括したため非常に高価なものとなり、広く一般の方々の手にまで行き渡ることはありませんでした。そこで、建設省国土地理院等が主催して横浜市で開催された地図展(平成8年)を機に、これらを広い分野の方々に利用していただくため横浜市のみならず関東平野の広域について国土地理院のご承認をいただき、(一財)日本地図センターが再度復刻しました。


▼サンプル(クリックで拡大画像がご覧いただけます)

        

 

 

第一軍管地方二万分一迅速測図原図 作成までの経過

  明治維新後、わが国で地図の作成を行った機関は、工部省測量司でした。明治7(1874)年1月には内務省に移管され、8月に地理寮の所属となりました。地理寮は10月に地理局と改称されています。一方、明治4年兵部省に参謀局を新設する際、地理の偵察、地図の編成を司るところとして間諜隊がおかれました。

 明治10年の西南戦争で、戦闘用の地図に不足し、地図の必要性を痛感した参謀局は、明治11年に参謀本部と改組したことをきっかけに、参謀局の第5課を地図課に、第6課を測量課に改めました。
明治12年、測量課長小菅智淵工兵少佐は、「全国測量速成意見」を提出しました。この内容は、縮尺二万分一をもって10ヶ年1000万円で全国を測量しようというものでありました。これを受けて、明治13年第一軍管地方(関東地方)に二万分一迅速図の測量事業が開始されました。各地図の左肩に表示されている測量年次を見るとまず東京都北豊島郡の板橋、王子、志村、南足立郡の花又、西新井、南葛飾郡の小松川、埼玉県の川口、千葉県の船橋、市川などの地域で測量が進められたようで、明治14・15(1881-82)年には川崎、横浜、横須賀、鎌倉等の地域が完了しています。

 迅速測図というのは、参謀本部、陸軍測量部が国土の詳細な地図の整備を早急に進めるため、明治初・中期に正規の三角点の成果に基づかないで実施した各種の測量法の総称で、それによって作られた地図の名称でもあります。
 迅速測図は、地図の大切な要素である地表対象物の相関位置の表示という点では、現在の測量の精度に決してひけを取るものではありませんが、完成した地図には地球上の位置を表す経緯度の表示がないことが特徴です。

 

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