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東京戦災白地図

終戦直後の記憶を発掘検証し、後世に伝える基本資料

5千分1 東京戦災白地図

1945(昭和20)年8・9月のアメリカ軍撮影空中写真により作成され、戦災復興院が1946(昭和21)年に刊行した、知られざる東京の大縮尺地図群、33図。 東京戦災白地図 の詳しい解説はこちら

※縮尺:1:5,000 サイズ:四六全判(78.8×109.1cm)
※地図折目なし。全図のまま紙筒(約90cm)に入れ、発送いたします。
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全図揃(33図) 特価 : ¥51,322(税込) ご購入ページへ

《本図群の特長》

●それまで空白や戦時改描で表現されていた皇居(宮城)や皇族邸宅・用地、各種軍事施設、主要交通施設、道路、工場などを、空中写真のままに網羅した、「あの時の東京」の稀有な証言録。

●図描全体にみられる「暗影光輝」表示は、焼け残った区画や独立建物をつきとめる有力な手掛り。

●等高線は省かれているものの、湿地や小水路、池などが明瞭に読みとれる。

●記載文字(注記)や数字、図描が大きく、一目で把握できる。

●大縮尺のため、記憶確認、地域復元用の書込み素図に最適。

 

分売も承ります

※分売は、エリア単位(市・区)もしくは、お好みの4図セットの販売となります。
※各エリアをクリックすると、詳細画像が確認できます。
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千代田区 3図 ¥5,670(税込) 大田区 6図 ¥11,340(税込) 足立区 4図 ¥7,560(税込)
中央区 2図 ¥3,780(税込) 世田谷区 10図 ¥18,900(税込) 葛飾区 2図 ¥3,780(税込)
港区 4図 ¥7,560(税込) 渋谷区 4図 ¥7,560(税込) 江戸川区 2図 ¥3,780(税込)
新宿区 4図 ¥7,560(税込) 中野区 4図 ¥7,560(税込) 武蔵野市 2図 ¥3,780(税込)
文京区 3図 ¥5,670(税込) 杉並区 7図 ¥13,230(税込) 三鷹市 2図 ¥3,780(税込)
台東区 3図 ¥5,670(税込) 豊島区 3図 ¥5,670(税込) 調布市 3図 ¥5,670(税込)
墨田区 5図 ¥9,450(税込) 北区  4図 ¥7,560(税込) 狛江市 2図 ¥3,780(税込)
江東区 6図 ¥11,340(税込) 荒川区 4図 ¥7,560(税込) 西東京市 1図 ¥1,890(税込)
品川区 4図 ¥7,560(税込) 板橋区 2図 ¥3,780(税込) カスタム4図 4図 ¥7,560(税込)
目黒区 4図 ¥7,560(税込) 練馬区 3図 ¥5,670(税込) 全図揃 33図 ¥49,896(税込)

 

「東京戦災白地図」解説

はじめに

 明治中期以降、日本の実測図を代表し、軍用に限らず一般の利用にも供した陸軍省参謀本部陸地測量部(以下「陸地測量部」と略称)発行の地形図は、昭和19(1944)年7月に販売停止となった。それ以降、第二次世界大戦の戦況は、日本国内にあっても日々厳しさを加えた。しかしこの戦争末期にも地図の修正あるいは軍用特定主題図の編集は続けられていた。

 昭和20年8月の敗戦を迎え、国家の地図作成機関は陸軍から内務省へ、さらに建設省所管の地理調査所へと移管されるが、再出発に伴う地図の刊行は、早くも昭和21(1946)年9月に開始された。当初は既刊図の再版であったが、続けて戦争による遅滞していた各地の地図の一般的修正作業に及ぶとともに、当時ほとんどの大都市域に見られた戦時下の大変貌、すなわち戦災の影響を記入するという、特定の目的をもった緊急修正作業も開始される。

 本図群(以下「5千分1図」と略称)は、各図右下の例言にあるように、昭和12(1937)年測量の陸地測量部発行1万分1地形図(以下「昭和12年1万分1図」と略称)をベースとし、これに敗戦直後(1945年8、9月)アメリカ軍が撮影した東京の空中写真によって修正を加え、1万分1地形図の図郭のまま拡大(長さで2倍。面積で4倍)し、5千分1図としたもの(覆刻にあたっては総タイトルを「戦災東京白地図」とした)であるが、図郭外左下記載にもあるように、戦災復興院が民間測量地図会社の日本地形社に作成発行を委嘱している。

図描の特徴と「暗影光輝」

 5千分1図は、戦後もっとも求められる復興用の基本図として、敗戦後1年半で作成された。地形図が形を変えて都市計画用図とされた典型的な例と言えよう。戦後の都市計画図は、大正10(1921)年以来営々と作成、修正、発行されてきた内務省系統の3千分1都市計画図とは別系統の、陸地測量部の拡大修正図として開始されたことになる。

 しかしながら、5千分1図の図描は、戦災地を特定表現した主題図ではなく、基本的には一般地形図として作成されたものであり、そのことは記号例(凡例)から確認することができる。ただし、一般的図描からすると、白描図というか、応急版的図描に特色がある。たとえば、凡例には「堅固ナル家屋」の記号は存在しているが、実際の図中には、家屋の囲み線の中にあるべき細斜線は省略され、したがって「堅固ナル家屋」と、囲みの中が空白で示される「木造家屋」との区別は、この図中では不可能となる。この他にも、図左の凡例には「区町村界」の線が示されているものの、図中にはその記入はない(東京が現在の23区となるのは昭和22年8月)。これは以下に触れる、昭和22年1万分1図でも同様である。また郵便局も記入されていない。探せばさらにいろいろな点が指摘できよう。

 一方、図描のなかでとくに注目されるのは、独立家屋あるいは道路に囲まれた区画の一括表現部分である。地図表現技法のひとつである「暗影光輝」とは、左斜め45度の角度から平行照射光線があると仮定して、地上凸部の右下側を影の部分として太線で描き、凹部は左上側を太線で表現することであるが、本図群においては、右下に太線を伴った区画や建物は、概ね戦災を受けなかったか、焼け残りもしくは崩壊を免れたところと推定される。これに対して、区画が細線のみで囲まれている箇所は、①元々の空地、②戦時建物疎開地区、③戦災焼失地区のいずれかを示していることになる。

 従来、戦災地域については、個々の町会や学区の復原調査を除いて、比較的大雑把な表示しかなかったが、この地図と空中写真、および記録や証言の裏づけを総合することにより、ほぼ正確な特定が可能となる。

 なお、この地図では、地形図の基本ともいえる等高線も省略される。それだけに平板な図という印象が強く、「白地図」とした所以である。ただし各図を仔細に眺めると、ごく稀ではあるが白抜き表現部分のはずが、凡例通りに細斜線入りであったり、等高線記入が見受けられたりするところもある。

 

戦時特例の都電営業休止区間

 このような不統一部分があることは、この図群が一般地形図を下地としながら、応急製作されたことを物語る。5千分1図刊行の半年後の昭和22(1947)年5月には、この図描の縮小版である1万分1図(以下「昭和22年1万分1図」と略称)が、同様に戦災復興院により日本地形社版として刊行される。この戦後初めての1万分1図は、5千分1図同様基本的に等高線を欠いた応急図で、内容的にはほとんど同一とみられるが、いくつかの相違点がある。

 たとえば「日本橋」図幅の都電の停留所については、5千分1図は昭和12年1万分1図にかなりの変更(省略)を加えているが、昭和22年1万分1図では12年図の表記の通り、交差点では各方向4ヵ所としている。また、5千分1図では道路上から消された都電路線区間が、昭和22年1万分1図では元通りに復活して描かれる。しかし、これは5千分1図が正しい場合が多い。なぜならば、5千分1図では昭和19(1944)年5月5日に実施された、戦時特例による都電の不急路線営業休止区間を、ほぼ忠実に表現しているからである。

 このときの営業休止区間には、実は2通りの意味があり、ひとつは永年不採算路線でもうひとつは非常時対策路線であった。前者は廃止路線で、後者は休止路線であるが、5千分1図では廃止路線は図から消されている。具体的には、数寄屋橋~新橋駅北口間、御茶の水~錦町河岸間、人形町~両国間などである。休止区間には、東京駅前の混雑回避の非常対策として、都電の東京駅前乗り入れ休止、すなわち都庁前~丸の内1丁目間のほか、両国駅前引込線の東両国2丁目(国技館前)~両国駅前間、そして淡路町~旅篭町間の例もみられる。その上に、5千分1図編集時の敗戦直後は大空襲被害から懸命の復旧時であり、昭和19年5月実施の休止区間以上に都電路線の休止部分が広がっており、完全な営業再開は昭和27(1952)年5月を待たなければならなかった。したがって、当時どの区間が実際に休止となっていたか、凡例も区別もないので見分けられないが、少なくとも昭和19年5月以降の都電廃止路線だけはこの地図から明らかになる。これに対して、修正されたはずの昭和22年1万分1図がなぜ路線状況を元に戻しているのだろうか。

 アメリカ軍の空撮写真にはレールの残存も写っているから、修正時の地図編集者が路線休止の事実を弁えないとしたら、そのまま図化された可能性がある。営業休止から廃止路線となって架線撤去が決定されても、レールの取り外しには時間を要するからである。以上、都電の営業区間と休止区間とを中心に、ほぼ同図描の半年差で刊行された二つの図を比較してみたが、先行して発行された図が、単に大判というだけでなく内容的にも敗戦直後の実態により近い表現をもっていることが判明した。ただし、「日本橋」「新橋「四谷」「三田」図幅では、後に触れる作成過程の関係上、昭和22年1万分1図がより実態に近い修正を行っているところも見受けられる。


例言と作成過程

 各図の右下に掲げられている箇条書きの例言にはいくつかのパターンがある。もっとも基本的なものは「一、本図は戦災復興の為写真を貸与せられたる米国陸軍空中写真により編纂せるものなり 一、空中写真は昭和二十年九月撮影のものを使用す 一、参考資料として陸測昭和十二年版一万分一地形図を使用せり 戦災復興院」であり、これが全体の約7割を占める。これ以外に、使用空中写真の時期が「九月」でなく「八月」となっているのが「荻窪」「上高井戸」「経堂」「二子」「吉祥寺」の5図、また真中の「一、空中写真は昭和二十年云々」のかわりに、「一、但し応急のため末(ママ)校正のまま仮製版せるものなり」という断り書きがあるのが「日本橋」「新橋」「四谷」「三田」の都心域4図である(引用文は片仮名を平仮名に、旧字を常用漢字に変更)。

 また例言上に網点にAという文字の入った四角形があり、Aの凡例として「空中写真使用地区」とあり、前述の「応急のため末(ママ)校正のまま仮製版云々」の4図は四角形およびA凡例ともに欠如している。ただし「荻窪」「上高井戸」「経堂」の 3図は、四角形の網点がA、Bの2種類に分かれ、Aは前述 同様であるものの、Bは「現地踏査地区」という凡例が示され ている。さらに「二子」「吉祥寺」「井之頭」「成城」「登戸」の5図もA、Bの2種類となっているがBの凡例は「一万分之一地形図使用地区」と示される。

 これらの例言から、地図作製過程を概括すると、図化は基本的に35区のうち周辺域から着手され、一部は実地踏査も行われたものの全図についてそれを行う余裕なく、もっぱら米軍の空中写真に依存し、そして最後に残った都心の4図については、図の校正を行う時間もなく仮製版して全図が刊行された、という実態である。図を利用する側も、このことを念頭におく必要があろう。


おわりに

 いずれにしても、当該5千分1図は敗戦直後の首都東京を応急的にでも網羅した記録として貴重であり、とくに当時の地域を復原するには作業ベースとして活用が期待できる。昭和22年1万分1図との異同は、中心域の「日本橋」「四谷」図幅以外にも、細かく調べればさまざま指摘できる点があるといえよう。繰り返すが、とくに地域復原などの際には、地図以外の各種記録、写真や証言などをも併せて、地域の実態を立体的に把握することが基本となろう。

 なお、昭和22年1万分1図は、今回覆刻された5千分1図33図以外に、東側、北側になお17図ある(「市川」「行徳」「松戸」「金町」「小岩」「小松川」「浦安」「草加」「花畑」「舎人」「西新井」「志村」「練馬」「成増」「石神井」「膝折」「下保谷」)ことが確認されている。5千分1図においても作製された可能性があり、今後の発見に俟つことをお断りしておく。

(井口悦男)